佐藤拓馬の「お勝手になさい。」

虫眼とアニ眼

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宮崎駿さん関連の本を買い、「虫眼とアニ眼」という宮崎さんと解剖学者の養老孟司さんの対談をまとめたものを読みました。
あとがきで養老さんが「見えない時代を生き抜く〜宮崎アニメ私論」として書いたもののなかで印象に残ったところを以下に抜粋してみます。(ちょっと長いんですけれど。)


宮崎作品は、宮崎駿という人柄の表現でもあるが、それはアニメという方法を通して、結局は日本の伝統を語ることになる。方法自体が日本的であり、語られる内容が日本的だからである。「千と千尋」の魔女は、姿かたちが西洋の魔女だが、そういうものを取り込んでしまうのも日本文化だと、だれでも知っている。しかもあの婆さんの部屋に行くまでの廊下の調度といえば、どう見ても中国の花瓶なのである。このゴタ混ぜが日本文化でなくて、なにが日本文化か。伝統文化といえば、能だ歌舞伎だ茶の湯だという。それはそれでいい。しかしゴタ混ぜもまた、日本文化そのものである。能衣装を子細に見れば、どう見ても中近東由来じゃないかという、派手な唐草模様のパッチだったりする。茶の湯の袱紗(ふくさ)さばきは、カトリックの聖体拝受と同じだという説が以前からある。知的所有権などというものは、特殊な時代の、特殊な世界の産物である。独創性とか、個性とかいうが、真の独創なら、他人はそれを理解できない。他人に理解できるなら、それはべつに独創ではない。いずれだれかが考えるはずのこと、それをたかだか最初に思いついたというだけのことだからである。個性もまた同じ。まったく個性的ということは、他人の理解を超越することである。その意味で「個性的」な人に出会いたいなら、精神病院に行った方が早い。

まとめてみれば、「千と千尋」の受賞(ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した。)がなぜ問題になるか、その背景には二つの事情がある。一つは多くの日本人、とくにいわゆるインテリが、あれを「よいもの」と見ていいのか、その確信がないことである。もう一つは、そこへ欧州からの評価が先に来てしまったことである。いってみれば、幕末から明治にかけて、浮世絵だの大和絵だののよいものが、外国に出てしまったのと似たような現象であろう。自分が持っているもののよさは、あんがいわからないものである。マンガはあれだけはやっているし、それだけにくだらないものを多く含んでいる。しかしそれは裾野が広いということで、高い山は広い裾野を持つともいえる。こうした日本の視覚文化は、まだ基礎的な面からきちんと評価されていない。

文化の違いとは、ある意味では、これほど根元的なのである。それが結果的に脳の違いを形成する。その違いは生まれつきではない。つまり遺伝子の違いではない。なぜなら、後追いとはいえ、アルファベット圏の思考を、われわれも理解するからである。日本のアニメを、かれらも理解するからである。ヒトの脳のもっとも重要な機能は、ひょっとして一般に思われているかもしれないように、個性的な思考をすることではない。普遍的、つまり根本的にはだれにでも通用する、そういう思考をすることなのである。下手な英語で「外人」と語り、話が通じたと喜んでいる。それで「正しい」のである。重要なのは「通じる」ことだからである。それなら個性とはなにか。独創とはなにか。「通じない」ことか。ドイツ人は日本人にバッハが理解できるか、という。日本人はアニメがドイツ人にわかるものかと思っている。たがいにそれは、誤解にすぎない。違う脳は、違う風に反応するかもしれない。しかし、反応することに変わりはないのである。

ここまで書いてきて思うのだが、やっぱり現代社会は変である。文部省は生きる力を与える教育といったが、生きる力がない生きものなんて、そもそも生きものじゃない。そんな変な存在がいまの子どもだと、本気で思っているのだろうか。現代は先が見えない時代だという。先が見える時代がそれならあったのか。そういう人には、私は「あなたの告別式は何年何月何日ですか」と訊くことにしている。人生でもっとも重要な日の日付を知らない人間が、いつから「先が読める」と信じるようになったのか。
子どもが子どもでいられない。そんな変な時代は、そろそろやめにすべきであろう。虫採って、アニメ見て、将来の夢を見ていれば、それでいいのである。生きる力なんて、子どもははじめから持っている。それをわざわざ、ああでもない、こうでもないと、ていねいに殺しているのが、大人なのである。

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養老さんの「個性」についての見解は前からスパッとしてて面白いなあと思います。「個性」は別に育てるものじゃない。生まれつきすでに持っているもので、増えも減りもしない。育てていくものは、人間どうしの共通認識の部分なんだと、他の本で書いてありました。
しかし、フランス映画や日本映画のよくわけのわからないやつあるじゃないですか。見続けることが辛くなってくるようなもの。でも、しばらくガマンしてると、辛い思いをしている自分がバカみたいになってきますよね。つまり、こっちは理解したいと思っているのに、向こうにその気がないから。そうしたら、どのシーンで笑ったり、泣き出したりしてもこっちの自由なんじゃないかと。好きなように見てもいいんじゃないかと思います。作り手はもちろん、感じる部分を指定するようなエゴを押し付けてはいけないと思います。そして、そういう「無意味に思えるものを作る」という人間に関して、僕は面白いなと思います。遊びやゆとりを感じます。こんなものがあったっていいじゃないかという。現代アートも嫌いじゃないほうです。しかし、それは多数の支持を得られることは求めていません。よくわからない映画を作るやつもいれば、ふらっと訪れる人間がいることも面白いんです。無駄なものがまったく無くなるときは、ちょっと恐ろしい世の中になるような気がしますね。
つげ義春の原作だかで、「無能の人」って映画があって、昔見て、あまりおぼえてないんですけれど(これは僕のせいで作品のせいでなく、笑)、竹中直人演じる男が、ホームレスなのかな、しかし「ホームレス」という社会的区分けをすることで安心する理屈もなしにしちゃいたいんですけれど。河原に住んでて、そのへんに転がっている石を棚に並べて、石を売っているんです。多分売れていないと思うんですけど。笑。その設定が面白くて、とても嬉しくなっちゃった記憶がありますね。ただ、それのなにが面白いの?と思う人もいることを先ほどの話で言えば、認めなければいけませんね。

宮崎さんは、「となりのトトロ」について、子どもを持つ母親から、一緒にもう何回もみてます。なんて言われることがあると、それはやめてくれと思うんだそうです。誕生日に年一回とかでみたいな。家でビデオみてちゃ、外で遊ぶわけがないと。笑。宮崎さんのなかでも、ビデオたくさん売っといてという矛盾があるようですが。大人は間違っちゃうというか、あきらかに子どもとずれることはしょうがない訳ですね。立場が違う。大人は子どもの安全を確保して、健康に育てる義務があるけれども、トトロを一緒に見てたって、すでに違う立場で見てるわけですよね。

黒澤明監督との対談集も半分以上読みましたが、鎧(よろい)の話とか、日本の歴史の話とか映画の専門的な話についていけないですね。歴史あまり得意じゃなかったです。年号と箇条書きの出来事の羅列の授業では、人間のドラマが見えて来なくて、興味がわかず。1〜3年?で人間の歴史を(日本史、世界史)振り返るなんて急いでやらなきゃ無理ですよね。それは先生も大変ですよね。でも過去の人間の動き方から学べるものは多いと思います。それを学んだからって、僕の人生に具体的に大きな影響は及ぼさないと思いますし、(つまり歴史上の有名な人物のように、たとえば合戦の勝ち負けを自分に任され、多くの人間の命を左右するような立場に立たされるようなことは今後無いと思われるので。笑)また、学んだことが誰に伝わるものでもない。もし子どもが出来たって、学んだことは後天的なものですから、子どもにはあんまり伝わらないとも思いますが、対談が可能になることって、お互い知っていることが共有できていないと成り立たないんですよね。おじさまたちの話を聞いていて、自分はあまりにも知らないことが多すぎるなあと思います。
by sattak1974 | 2008-09-05 21:21
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